这两种表现形式有什么区别?
分かりはしない 分からない触りはしない 触らない 个人认为只是语气上的区别,第一个强烈一些
例子
お前にはわかりはしないさ。 私のことなど。 私がお前をわからないように 分かりはしない 分からない
不想知道 不知道
触りはしない 触らない
不想碰 不碰
前者是表示能够做某事但是不做(しない是不做的意思)
是出于主观的
后者是不能做某事
比如说小A叫我教他做作业
我和小A的感情不好的话我就可以用第一种:Aさんに宿題を教えはしない
如果我想教她,但是他作业很难我没有能力去教,就可以用:Aさんに宿題は教えない
(这里是例子不太恰当,如果要表示没有能力去教的话最合适的是:教えられない。)
为了方便理解仅供参考 分かりはしない=分かりたくない?
触りはしない=触りたくない? 有这层意思的
但是前者更加强调主观上的不去做 这是は的引出否定叙述并强调否定语气的用法。
今朝はそんなに寒くはない。
この辺りはあまり静かではありません。
これは君の本ではない。
以上这些常见的句子其实都属于这一用法。
当用在动词上时则带有更为强烈的主观性,
有“绝不会”、“不可能”、“根本不”之类的语气包含在里面。但是不能一概而论,必须根据动词本身的性质作不同的解释。
表示能力状态的动词:見つかる、ある
同じものが見つかりはしない/不可能找得到第二个
そんなことありはしない/绝不会有这种事
表示意志动作的动词:見る、乗る
負けたら見はしない/输了的话看都不想看
彼はこんな車に乗りはしない/他根本不会坐这种车
这里需要注意的是自、他动词不能作为区别标准。因此像分かる这样两者兼备的词在不同情况下意思自然也不尽相同。
此外,は还有表示让步的用法:
見はしなかったけど、感じたんだ/我虽然没看一眼,但是却感觉到了
这种用法能够通过上下文方便地与前一种用法分别开来,这里就不赘述了。
谢谢版主的解释!
还有一种表现方式ったりしない和这两者又有什么区别呢?
比如说:
泣かない
泣きはしない
泣いたりはしない
这三者有什么区别呢? ・・・たりする
原意表示举出一个具有代表性的动作来说明整体情况。
派生出两种用法:
(1)对所举动作带有一种轻视。
ちょっと目にほこりが入っただけで、泣いたりはしてない。(実際は泣いてる)
我只是眼里进了点灰尘而已,才没有哭呢。(实际上在哭)
(2)所举的动词是最低限度。
親でも殺せる人間だから、泣いたりはしないんだろう。
连父母都不放过的人怎么可能落泪呢。
令,大部分用する构成的动词一般用なんかしない比较多,比如:一般说“反省なんかしない”,而不太说“反省したりしない”。
意思大致一样。
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