闇紅の魔導師 发表于 2012-6-8 21:35:56

「どうも」

本帖最后由 闇紅の魔導師 于 2012-6-8 22:46 编辑

  日本に来た外人に、これを知っているとたいへん便利だから、ぜひ覚えておくといいという日本語を一つだけ教えてほしい、などと言われたら、皆さんはどうするか。

  「こんにちは」ではない。「さようなら」でもない。「ありがとう」でも「すみません」でもない。「どうも、どうも」これである。

  「どうも」--このことばさえ知っておけば、先にあげた四つのことばも、すべてこれで代用が効く。友人に道で会ったら「やあ、どうも」といえばいいし、別れるときは「それでは、どうも。」と言っておけばよろしい。応用範囲は、極めて広い。婚礼のとき、あるいは葬儀の場合に、堅苦しいあいさつを長々と述べる必要はなく、「本日はどうも。」と言って頭を下げるだけで意味が通じる。日常の社交用語として、これほど便利重宝なものはない。

  「それでは、いったい、どうもとはどういう意味内容を持った言葉なのですか。」

  外国人に改めてそう尋ねられた日本人が、

  「さあ、それはどうも。。。。」

  といって頭をかいた。これは笑い話ーー。

  ある辞書によると、「どうも」には、「どうしても」怎么也、「いかにすれども」实在、「はなはだ 太 まったく 完全」という三つの意味があると記されている。「どうも見えぬ」「どうも仕方がない」「どうも驚いた。」等々、要するに、どうしようもない、なすすべを知らぬ、まったくお手上げだ、ということである。高価な贈り物を受けたときなどに発する「これは、どうも。」という言葉、親しい友人の告別式に赴いたときなどに述べる「なんとも、どうも」ということば、いずれも感きわまって、自分の気持ちをどう表現していいのか分らな、ということだ。

  それは、自分の思っていることを言い表すのに、言葉というものが いかに不備で不適切であるかということの自分告白であり、そこに日本人の言語観を見ることができる思想や意見は言葉によって必ず的確に表現でき、また表現すべきものだとする西洋の合理主義的、楽天的コミュニケーション感覚とは、まったく正反対のもので、以心伝心とか不立文字よしとし、常とする日本人の精神構造と深いかかわり合いがある。言わば、超言語的思想表現である。

  このように、「どうも」といえば、=とうにも言い表せない、ということが原義でありながら、今日われわれは「どうも」で何でも表現している。「どうもありがとう」、「どうもすみません」、「どうも困った」などの、「どうも。。。」に続く後のことばを省いて使っているのだ。電話のかけ方を例に取ろう。

  「もしもし、こちらは加藤ですが、どうも、どうも。」

  あいさつは万事これで事足りる。「このごろは少し暑うございますね。」とか、「この間は失礼をいたしまして。」など言わなくてもすむ。

  このごろは、マスコミュニケーションをマスコミというふうに、フルネームを略語化することが多い。しかし、「どうも」の場合は表現の簡略化であって、マスコミというときのようにことばの単なる簡略化とは違う。略語はそれ自身一つの意味しか持たぬ。「どうも」は一言にして多義的な意味を持つ。多義性を生かすことで簡略化に成功しているわけである。

  日常のあいさつことばとして「どうも」をよく使いはじめたのは、恐らくジャーナリズム関係の職業の人であろう。彼らの仕事の性質上、礼儀的挨拶は精々簡略にして、敏速な事務処理を図る必要がある。そこで簡潔な挨拶言葉として「どうも」が登場する。そして、戦後、マスコミ産業の拡大化にともない、「どうも、どうも。」も一般に普及し、大衆化したのであろう。

  大体、東方の君子国である日本には、挨拶言葉一つにも、面倒な しきたりやきまりのようなものがある。「このたびは不思議なご縁で」と言えば婚礼のときの、「だんだんとおさみしゅう ございます。」と言えば初七日ときの、それぞれ慣用あいさつことばである。これらをいちいち覚えて使いこなすのはたいへんだ。それに、こうした慣用句はいわば紋切り型になって、白白しい感じを相手に与えることにもなる。「どうも」--この一語のほうにどれほど情感「じょうかん」が こもることか。

  「どうも」は、あとに続くことばを皆いわなくても、それを使うときと場合、あるいは抑揚のつけ方で、何を言おうとしているかが分る。自分の置かれたさまざまな状況のいかんに応じて、広く無限に応用がきく。「どうも」というものは、それだけ取り出してみれば、意味の上では確かにあいまいな言葉だ。しかし、あいまいだからいかん、という理屈は必ずしも成り立たない。実際の状況では、「どうも」のあとに続く意味は、わざわざ言葉に出さなくても、ちゃんと分る ようになっている。言わないでもわかっていることをわざわざ言うのは、意味の明晰化ではない。それはむだ というものだ。それに日常言語というものは、ある程度のあいさつを潤滑油にして、動いている。「どうも」はそういう潤滑油として、大変品質が高いのである。つまり「どうも」は多元的状況を抽象的に処理することができるわけだ。人間関係が複雑に なればなるほど、ますます効用が発揮されるのである。

  こう考えてみると、「どうも」という言葉は、物事の判断を中止し、断定することを回避するという機能を持っているようだ。「どうもわからん。」といえば、あれもこれもいろいろ考えてはみたげれど、どうにもわからんということで、原則脱落的態度を示す。

  「どうも」が持つ多義性は、こうした原則脱落 判断中止 断定回避性から出てくる。そして、日常の社交用語としての礼儀性も、ここから生まれたものといってよい。なぜなら、儀礼や社交では、思想の発表と違って、言語表現が明確であることを必要としないのだから。

                                            「日本人の知恵」による

rain36 发表于 2012-6-8 22:42:17

これ、どっかで読んだような気がするけれど…ノーコメント

っていうか、日本人の生態についての文章がよくあるけれど、ぶっちゃけ理解できても、彼らのように実践するのがやっぱ難しいよね、価値観の相違とかなんたらかんたらの原因で

まあ、読んで面白く感じるのは確かなんだけどね、そういう無駄に気遣うところとか

黄鸡蛋 发表于 2012-6-9 02:10:31

       どうも

forge軍曹 发表于 2012-6-9 08:21:12

受益匪浅 日语能力我还嫩着 不过大概看得明白就是どうも用法
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