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了解真正的柳生新阴流剑术

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发表于 2004-4-1 00:29:11 | 显示全部楼层
新陰流の歴史




一、剣聖上泉伊勢守信綱公について



  新陰流の開祖上泉伊勢守信綱は、先祖は遠州俵藤太秀郷より出て、その家は代々
  上野大胡の城主として大胡の庄を治め、信綱の代には箕輪城主長野信濃守業政の
  旗下として戦場を掻け回り、その功より十六人槍の一人と称せられる戦国武将で
  ありましたが、長野業政が武田信玄に滅ぼされるのを境にそれまで修行を重ねて
  きた剣術の道へ没入することとなります。



  信綱は若き頃より常陸の国;鹿島にて鹿島神流を伝える松本備前守尚勝の下で修
  行を致しております。この備前守尚勝は、一の太刀と呼ばれる兵法の極意を編み
  出し後に塚原卜伝に伝え渡したと云われる人物であります。
  その後戦乱に備前守が倒れると、次いで陰流を起こした愛州移香斎久忠に師事し
  剣術の修行をし、その二人の師の教えを更に極めついには自らの一流を開きます。
  その剣の体系こそ「新陰流」であります。これは読んで字のごとく自らが師事し
  修行した陰流より新たに出でし流儀を顕わしたものです。



   参考:兵法の源流系図へ



  大胡の家督を一子常陸介へと譲り渡した後、伊勢守は修行のため疋田文五郎景兼
  (後に疋田陰流を創設)、神後伊豆守宗治(後に神陰流を創始)を同道し諸国を
  回る旅に出、新陰流を広めていくことになります。
  その門からは、柳生宗厳(柳生新陰流)、丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)、奥山休
  賀斎公重(神景流)、宝蔵院胤栄(宝蔵院流)等の当代一流の兵法者が輩出され
  ることになります。
  なぜ彼の門にこれほどまでに優れた門弟が多かったのかはおよそ次の理由である
  と言われております。
  信綱が、彼自身奥義を極めたのみならず剣法を組織化しこれを判り易く教授する
  術と、門弟の才に応じて導いていく優れた能力を持っていた為と考えられます。
  信綱は、第一にそれまで戦場で会得するものとされていた太刀打の術を技術的に
  分析し、各組の太刀使いに分かちそれぞれに理論をづけて系統立て独自の名称を
  与えました。
  信綱の相伝書に拠ると、燕飛;遠廻;山陰;月影;浦波;浮舟の表に始まり、一
  刀両断;斬釘截鉄;半開半合等の三学五個の太刀、それらに加え必勝;逆風等の
  九箇の太刀が名づけられています。そしてこれら全てに信綱の自筆とされる図解
  が入っております。これはそれまでの剣法の修行教授のされかたとは全く比較に
  ならない精密で理論的なものであると共に、これらの技法を各段階毎に分け上達
  に合せて伝授をしていくことで門弟達のやる気を引き出しひいては一層精進する
  ことになり、これらが信綱の新陰流が隆盛を極めた理由であるとされております。



  又、現代の剣道の竹刀の原型を考案したのもこの信綱であります。
  当時、剣の修行には主として木刀が用いられましたが、これで実際に打ち合うと
  当然大怪我をする為、身体の手前一、二寸で止めることとなりその近さが剣の腕
  のようになっておりました。信綱は実際の打ち合いをしても大きな怪我をせずに
  済む様に「ふくろ竹刀」を考案し剣の教授に大いに活用を致します。
  これは、一メートル程の竹を細かく割り、三十から六十節くらいを合わせて皮の
  袋に入れたもので鍔はないものでした。これが後に改良を加えられ現在の竹刀に
  なっています。



  大胡を発した信綱一行は関東をめぐり西へと向かいますがその間の詳しい足跡は
  わかっておりませんが、まず信綱は伊勢路に現れます。
  その頃の伊勢国は北畠具教が国司として治めておりました。北畠具教は、前出の
  塚原卜伝より一の太刀秘伝を受けた達人でもあります。
  この地での逗留の内に、信綱は当時畿内第一の使い手の呼び声があった柳生但馬
  守宗厳の世評を聞いたとされております。
  一行はその後、京に入り相国寺に滞留したとされます。
  ※この間足跡は柳生へ入ったとされる文献もありはっきり致しません。
  京滞在中に伊勢守は多くの弟子を取りその中には、後にタイ捨流を開く当時北面
  の武士であった九州人吉の丸目蔵人佐長恵がおり、時の将軍足利義輝公への御前
  演武の際に打ち太刀をつとめております。
  将軍義輝は、尊貴な身でありながらも塚原卜伝より新当流の皆伝を得ている剣の
  達人でもありました。この際、伊勢守はその型およそ百太刀を上覧したとされ、
  その見事さに義輝は下記の一書を認めたとされております。



  「上泉兵法、古今比類無し。天下一。並びに丸目打ち太刀、これまた天下の重宝
   たるべきものなり。
    三月十日                       義輝(花押)
         上泉伊勢守殿
         丸目蔵人佐殿                       」



  この後、戦国の業蠢く京より伊勢守一行は柳生の庄の領主・柳生但馬守宗厳から
  の招待を受け大和の国を訪れます。
  一行は、興福寺塔頭である宝蔵院に入り槍の名手であった院主の胤栄法印と宗厳
  と対面致します。
  宝蔵院での宗厳との立会いは概ね下記のようなものであったと伝わっております。



  立会いを強く所望する宗厳に対して伊勢守は先ず同行の疋田文五郎との立会いを
  申し渡します。
  この時に宗厳の態度には諸説入り乱れの状態です。倣岸というものや丁重という
  もの、文五郎とは互角であったというものから歯が立たなかったというものまで
  ただ、諸説に共通していますのはこの時に宗厳の剣は伊勢守には全く歯がたたず
  又、なぜ間合いを詰められるのかなぜ打たれるのかすら全く理解出来ない状態で
  あったとされております。
  この後、伊勢守との決定的な実力差を身をもって知った宗厳は礼を尽くして門弟
  たらんことを乞い、宝蔵院胤栄と共に許され翌年伊勢守が柳生を去るまでの間に
  剣の技を授けられます。
  その後も伊勢守は二年程の間に数回柳生を訪れ、ついには宗厳に一国一人の印可
  状を授け新陰流の正統を継がせることになります.
  この時、伊勢守は宗厳に対して無刀取りの工夫を成し遂げることを言い残し一旦
  柳生を去ります。
  伊勢守の言う無刀取りとは、身に寸鉄も帯びずいかに強大な敵と言えども恐れる
  ことなく立ち向かい、敵の武器を奪い取り制圧する組太刀を指します。
  伊勢守が去った後宗厳がどのような工夫を重ねたのかは不明です。
  そして2年後に再び伊勢守が鈴木意伯を共に柳生の庄を訪れた折にはその工夫は
  なされていたとされます。
  立会いは、宗厳と鈴木意伯と行われました。宗厳は身に寸鉄も帯びず
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 楼主| 发表于 2004-4-1 00:30:08 | 显示全部楼层
对日语不是很懂的哈,还望高手能够翻译一下的好
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发表于 2004-4-1 17:18:54 | 显示全部楼层
新阴流的历史

一、剑圣上泉伊势守信纲公
  新阴流的开派祖师上泉伊势守信纲,其先祖出身于远州俵藤太秀乡。其家代代为上野大胡的城主统治着大胡的庄。到了信纲这代作为箕轮城主長野信农守业政的麾下出征战场,以其战功在战国武将中被称为十六人木仓之一。长野业政被武田信玄灭了之后重新开始投入剑道的修行。

    信纲年轻的时候曾在常陆之国:鹿岛上师从松本备前守尚胜修行过鹿岛神流。据塚原卜传记载这位备前守尚胜是位编撰过被称为一之太刀的剑法的秘诀的人物。之后备前守因战乱过世,随后又师承开创阴流的爱州移香斋久忠修行剑术。最终综合二位老师的教导自成一家。这一派就叫做“新阴流”。取这个名称的含义就是一读名字就能知道这个流派是师承阴流,从阴流繁衍出的流派。

  参考:剑术源流系图

    将大胡的家督让给儿子常陆介之后,伊势守为了修行与疋田文五郎景兼(后创立疋田陰流),神後伊豆守宗治(后创立神阴流)同道去各个国家旅行,推广了新阴流。
从其门下出了柳生宗严(柳生新阴流),丸亩藏人佐长惠(タイ捨流),奥山休贺斋公重(神景流),宝藏院胤荣(宝藏院流)等当代一流的剑术家。
为何其门下能出这么多优秀的门人的理由如下
据说是因为信纲不仅自身身怀绝技,还拥有将剑法系统化,使剑术易于传授,对于门下弟子因材施教的能力。
信纲首先将战场上习得的太刀打的剑术技术的分析,区别各组太刀使用方法,分别根据理论系统地赋予他们各自独立的名称。
根据信纲流传下来的书来看,从燕飞,远廻,山阴,月影,浦波,浮舟之表开始,到一刀两断,斩钉截铁,半开半合等三学五個的太刀,甚至连必胜,逆风等九个太刀都起了名字。并且这些信纲都亲笔写了图解。随着这些剑法的修行教学成为相当精密的理论,这些技法被分为各个阶段,传授于能力相当的弟子,因而激发了弟子们更进一层的学习劲头。这就是信纲的新阴流能够盛行一时的理由吧。
另外,现代的剑道的竹刀的原型也是信纲设计的。
当时,剑的修行主流是用木刀,在实际对战中会造成比较大的创伤。因而在身体前一,二寸处停止的距离就是剑柄的长度。信纲为了在实际对战中也不造成巨大伤害设计了「皮袋竹刀」,并将之活用于他的授课中。
这种一米长的竹刀被削的很细,从三十开始有六十节被套入了皮的袋子中,因此没有剑锷。这种竹刀后来经过改良就是现代的竹刀了。

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发表于 2004-4-1 17:21:10 | 显示全部楼层
今天先贴第一段,明天再继续吧。

翻译好累哦,也不是很懂这段历史。
大家都来看看吧,欢迎高手指正。
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 楼主| 发表于 2004-4-5 00:31:13 | 显示全部楼层
美夕,继续呀
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发表于 2004-4-6 10:37:10 | 显示全部楼层
抱歉,前几天特别忙。周末偶也没有机会上网。所以……
偶翻的东东还能看么?从来没做过这么专业的- -a。也没有大大来给指正。偶暗地里惴惴的很哪。
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