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发表于 2004-6-3 23:22:33 | 显示全部楼层 |阅读模式
摘要
《TUGUMI》这部小说是吉本芭娜娜的一部早期作品,发表于1989年,并于同年获得了日本第二次山本周五郎文学奖。在这部小说中,作者刻画的主人公TUGUMI是一个很有特点的人物:从生下来身体就一直很虚弱,却具有超出常人的倔强性格,而且经常做出让人难以理解的恶作剧。但是,从这个“问题少女”身上却能让人感受到耀眼的光芒。文章中也在很多地方体现了TUGUMI这个人物的两面性。本文试图从心理学角度分析作品中TUGUMI这个人物的性格特点,从人格心理学中“潜意识压力”和“人的需求层次”等概念出发,深入探讨TUGUMI这个人物举动不同于常人的原因。例如她异于常人的攻击性性格,以及在种种行为中体现出来的自我毁灭倾向等等。通过透视这些外在的人物行为,来探求TUGUMI这个角色内心的思想状态和精神追求。另外,作品中恭一和MARIA等角色也对TUGUMI的人格起到了不可忽视的影响。本文也试图通过分析作品中各个人物之间的关系,来进一步探求TUGUMI人格形成的原因。最后,对于作品中数次出现的“光”这个象征性的词汇,本文也试图通过对这个词汇含义的分析,归纳一下对TUGUMI这个作品想要表达的主题思想的个人看法。



关键词:人格、潜意识压力、死、生命


















目録
命という光        3
序論        3
第一章        4
第一節「攻撃的な性格」        4
第二節「欲求とストレス」        5
第三節「死の希望」        5
第二章        6
第一節「捻くれ者」        6
第二節「生命への憧れ」        8
第三章        9
第一節「恭一との恋」        9
第二節「命という光」        11
結論        13
注釈        14
参考文献        14















命という光
外国語学院205班
XXX(此处经过马赛克处理)
序論
『TUGUMI』という小説は吉本ばななの早期作品の一つであって、1989年で発表され、そして同年第2回山本周五郎賞を受賞した。
小説の主人公「TUGUMI」がとても矛盾的な人物である。生まれた時から体が弱い、家族も覚悟した上、彼女をちやほや甘やかし、少しでも彼女の寿命を延ばそうと力を尽くす。その結果、彼女は思い切り開き直った性格になった。意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢い。人の一番嫌がることを絶妙のタイミングと的確な描写ですげすげ言う時の誇った様は、まるで悪魔のような子である。
しかし、この悪魔のようなつぐみに、小説の中の「私」、つまり白河まりあの心が引かれ、つぐみと友人になり、そしてつぐみの本当の姿が感じた。彼女の目の中で、つぐみは光るほど強い魂を持ちながら、泣きたいほど白くて薄くて消えようとする存在である。
つぐみの本当の姿は一体どんなものであるか、どうして彼女がそんな性格を形成したか、彼女の外見と本質との違いはどうやって形成したか。この論文の中、心理学の視点でできるだけ深くこの人物の特徴を分析しようと思う。
つぐみ以外、この小説で他の人物設定も深く分析する価値がある。つぐみと似た経験があって、彼女と付き合った恭一、複雑で微妙な家庭を持つまりあ、旅館を経営するつぐみの家族などがそれである。作品の人物としても、その人達は互いに影響し合い、繋がっている。作品の人物の繋がりを追究し、人物設定の必然性を論証するのもこの論文の一つの目的である。
作品の中で、「光」という言葉が幾度に出たことがある。つぐみの性格や、つぐみと恭一の付き合いなどを描写する時、作者はいつもこの象徴的な言葉を使用している。この象徴的な言葉の意味、この言葉に基づく作品の主題について、自分の考えを述べようと思う。
第一章
つぐみはこの作品の主人公であり、作品のテーマでもある。彼女の性格、思想を深く分析することによって、作品の主題がわかると思う。以下、つぐみを主要な対象として、心理学の視点で分析し、作品の主題を追求しようと思う。
第一節「攻撃的な性格」
つぐみは非常に強い攻撃的な性格を持つキャラクターである。「意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢い。人の一番嫌がることを絶妙のタイミングと的確な描写ですげすげ言う時の誇った様は、まるで悪魔のような子である」、この描写は確かに彼女の攻撃的な一面を表現した、作品の多くの所によく浮き彫られている。勿論、普通の人間なら、そんなに大きな攻撃性を表さないはずである。しかし、心理学から見ると、彼女の行為はそれなりの理由があると解釈できる。
まず、「挫折――攻撃」という理論を説明しておく。研究によって、挫折を感じる人は普通の状態より攻撃性を持つ。一つの場合を想像してみよう:ある深夜、あなたは研究のために図書館で一つの外国文章を読んでいる。あなたは何時間かかって翻訳したが、内容は全然分からない。あなたは時間を無駄にし、忍耐心も限界に達す。その時、あなたは本能的に雑誌を投げ出したい、或いは文章の作者を呪いたいのであろう。ストレスを感じる時、人間は攻撃的な行為でそのストレスを解消する傾向がある。心理学で、それは人間の一つの原始的な反応だとされる。
つまり、つぐみがストレスを解消するためにいつも攻撃性を見せるわけである。それならば、どうして彼女が普通の人より酷いストレスを常に感じているのか?それは、彼女が病で普通の人間のように生きることができないからだと思う。
第二節「欲求とストレス」
心理学には、「欲求階層」という理論がある。簡単に言えば、人間がいろいろな欲求を満すことによって、潜在意識のストレスを解消する。その欲求は、低次元から高次元まで、5段階の階層をなしており、低次元の欲求が満たされると次の欲求段階に進む。その5段階は以下の通り。
1.生理的欲求:動物的生存の保障に対する欲求
2.安全の欲求:危険や脅威から保護されたい欲求
3.社会的欲求:集団や家族への帰属を求める欲求
4.自我の欲求:他者から尊敬や賞賛をされたい欲求
5.自己実現の欲求:自己の潜在能力や創造性の発揮に対する欲求
それを見れば分かることである。つぐみはいつも体が弱いから、上記の欲求はほとんど実現できない。自己実現どころか、一番基本的な生存欲求さえも保障できない。従って、彼女の精神状態は常に緊張しているのが自然である。
もう一つの原因というと、つぐみの家族が彼女を甘やかし過ぎることも彼女の性格に影響を与えた。心理学の理論は少し理解しにくいけれど、一言で言えば、その育て方が彼女の高い欲求を更に増やしたのである。その環境で、つぐみはより自分の思想を固持し、外界によって積極的な解消方法を取れない、更に欲求とストレスの悪循環に落ちるのである。
第三節「死の希望」
作品の中で、つぐみが「死の希望」を表すところが何度も出たことがある。「おまえら、あたしが今夜ぽっくりいっちまってみろ、あと味が悪いぞー。泣くな」のように直接的な表現でも、「あたしは、最後の一葉をいらいらしてむしりとっちまうような奴だけど、その美しさは覚えてるよ、そういうことかい」「あたしの人生はくだらなかった」のような間接的な表現でも、またいろいろの無茶苦茶な行為でも、つぐみはいつも無意識に死を求めているのである。
フロイト・ジグムント①の理論によって、人間が常に「タナトス」という本能に駆られている。それが「攻撃、自己破壊に向かう死の本能」をさす。厳格的に言うと、誰でもそういう傾向がある。けれど、つぐみにとってその傾向が遥かに強い。私の考えで、その原因はつぐみの体にあり、一種の「防衛機制」②にもある。つまり、弱い体から生み出すストレスに対して反発的な行動であり、つぐみは本能的に自分の体を滅ぼそうとしている。もちろん、こういう自己破壊の行動も本能に拒絶される。その結果、彼女は「挫折――攻撃」モードのように、他人への攻撃的な行為によって、自己破壊へのストレスを転移するわけである。
こういうと、多分つぐみがエゴイズムだと思われるかもしれないけれど、そうでもない。作品の中でも明確に否定したのである。つぐみのいろいろな行為はただ無意識にしたのであり、意識的にそう望んでいるわけではない。それに、作品の中でまりあの口によって、つぐみの本来の動機を述べたのである。それが「彼女のめちゃくちゃさを支えるひとつの光だった」、そしてその光が「本人の知らないところで永久機関のように輝き続けているのだ」。その「光」の正体は後の部分で詳しく討論しておこうけれど、少なくとも、これは彼女の攻撃的な行為が意識的ではないことを証明できると思う。
しかし、この理論でまだ解釈できないことがある。いくら他人に攻撃的な行為をしても、つぐみはまだ自滅的な行動をするのも事実である。この点について、下記の理論で解釈できると思う。
第二章
第一節「捻くれ者」
つぐみは捻くれ者である。作品を最後まで読んだら、こういう結論になるはずであろう。作品の最後に、つぐみはまりあへの手紙によって、自分の本当の一面を表現したのであった。つまり、その前に彼女はずっと自分の本当の姿を隠して生きてきたのである。彼女を理解できる人もただ恭一とまりあ二人に過ぎない。ある場合、彼女は命の危険を冒しても自分の気持ちを誤魔化したのである。確かに、普通の人間ならそこまでする必要はないけれど、彼女の場合ならそうする理由が確実にあると思う。心理学の視点で、それらの行為は一種の「反動形成」③である。
作品の中で、つぐみの言動はいつも「反動形成」的に見られる。例えば、陽子さんがケーキを持って帰った時、つぐみは「もうお前らの持ってくるただのケーキは食い飽きたよ」と悪態をつくが、いつも好きなケーキを3個くらい持って部屋に引っこんでしまう行動をする。そういう行動が彼女の無意識を示している。つまり、彼女は正反対の行為によって、自分の本意を隠したわけである。或いは、無意識にそのような行為によって、自分の本当の気持ちから生み出すストレスを解消するとも言える。
ほかのいろいろなところにもこういう傾向が見られる。「団欒なんてゲロが出るほど嫌い」と言った場合、本当は団欒を楽しみたいのであり、「何でもないけど、元気?」「サクラチル」の悪戯をした場合、本当はまりあのことを心配しているのであり、「あたしとつきあってるのがうちの親父にばれて、殴られたんなよなあ」の冗談を言った場合、本当は恭一を失いたくない気持ちを抑えられないので無意識に口に出したのである。このように、つぐみはいつも無意識に「反動形成」という「防衛機制」を使っている。
その原因と言うと、つぐみにとって、素直に気持ちを表現すればストレスを招く。簡単に言えば、彼女が本意を表すのを怖がっている。
上記の通り、つぐみはいつも自滅の傾向がある。この傾向を一種の「反動形成」とも言える。そして、自滅行為で解消しようとするストレスと言えば、それが、生き続きたいという本能から生まれるストレスなのであると思う。
生物というと、本能的に生存を求めるのは誰でも分かる事実である。人間も例外ではない。しかし、人間の場合、その欲求はより複雑であり、上記の「欲求階層」のような、いろいろな欲求を満すために動いている。つぐみもそれらの欲求を満足しようとするが、彼女の弱い体で実現できないのである。彼女はただ普通の人間と同じ、自分の人生を楽しむしか望まないが、それどころか、自分がいつでも死ぬかもしれない体を持つから命の安全さえ保障できないことである。その巨大なストレスのため、彼女はやむを得ず「反動形成」を選んだのである。「いつも死を求めている人間は生きる欲求があるわけないだろう」、彼女はこの「防衛機制」によってストレスから逃げ出した。その結果、彼女は捻くれ者になり、だんだん自分の気持ちを素直に表現できなくなるのである。
より一層彼女の心理を追求すると、つぐみはまた劣等感を常に持っている。この原因も彼女の弱い体に関る。彼女は家族への帰属を求めたくないわけでもない。しかし、彼女は自分がその資格がないと無意識に思い込んでいる。彼女にとって、死を求めるのが確かに辛いけれど、生を求めるほうがより絶望的である。作品の中で、つぐみは同級生の皮肉に対して過激な反応も自分の劣等感を「反動形成」で示している。この視点で言えば、彼女の気強い性格も一種の「反動形成」であるかもしれない、劣等感から生まれるストレスを解消するために形成した性格であるかもしれない。
心理学の特徴というと、それは人間の外在的な行為を見通し、無意識の範囲でその人の動機を分析することにある。つぐみの場合も同じ、いくら異常な行為をしても、その真実はただ一つである。それが、完全の人生を求め、生命への憧れである。
第二節「生命への憧れ」
私の考えで、多分つぐみの本当の姿はずいぶん優しい子であるかもしれない。上記の分析によると、彼女の気強い性格もむちゃくちゃな行動も一種の「反動形成」に過ぎない。もしストレスが消失すると、彼女もだんだん自然の人格に戻れるはずである。
それに、作品の中でつぐみの優しさを表現するところが幾つもある。例えば、「お化けのポスト」事件がその一つである。まりあの祖父が亡くなった時、つぐみがまりあに元気を出させようとし、彼女の祖父の筆跡を真似して手紙を書いて送ったのである。
普通の考えなら、それはとんでもない悪戯であるが、深く考えてみると、つぐみがこのような悪戯で自分の優しさを表現していると思う。まず、その手紙はつぐみ自分で書いたのに決まっているが、視点を変えて見れば、その言葉もつぐみの本音である。それに、まりあが怒った時、彼女も素直に謝ったのである。従って、彼女はわざとまりあを怒らせるのではない、真剣にまりあに元気を出させようとしているのである。第二、もし単に悪戯を目的としたら、そこまで命の危険を冒す必要がない。その原因を言うと、つぐみが異常な人格状態で異常な行動をしたのである。或いは普通の人のような正常の行動ができないとも言えるのであろう。生のストレスと死のストレスの間で、つぐみは過激な行動で自分の存在を示すにしかできないのである。
自己実現を求めるつぐみは常に自分の存在を強く示す。「たとえ悪事でも、周りの人が自分のことをちゃんと覚えてくれる。ならば自分がこの世で去っても、自分が生きた証拠をちゃんと残るはずである」絶えずに無茶苦茶な行動をし、その行動の中に自分の存在感を感じる。彼女の全ての行動は、命、普通の人なりの人生を追求することに由来する。
作品の最後で、彼女はまりあへの手紙でこう言った。
「でも、カーテンと窓を開けると、陽射しと一緒に潮風が入ってくるんだ。あたしはまだ半分目を閉じたまま、明るいまぶたの中でうとうとと、犬の散歩の夢を見る。あたしの人生はくだらなっかた。いいことといったら、そのくらいしか浮かんでこないくらいのものさ」
つぐみにとって、彼女がもしその時死んだら、犬と一緒に散歩という経験だけが普通の人らしいことである。その時だけ、彼女が普通の人らしい「人生」を感じる。作品の最後、まだ素直とは言えないけど、つぐみは自分の本音を吐いた。彼女が今までの全ての行動は命、普通の人なりの人生を追求するためであった。
多分ある人が恭一のことも一つであると思うかもしれないが、わたしの考えで、恭一との恋がつぐみにとっては一種の「必然」であるから、普通の人生とは言えない。これについて、下記の部分で詳しく説明しようと思う。
第三章
第一節「恭一との恋」
作品の合理性を探索していく。優れる作品なら、その筋が自然のままに進むのである。作中の人物も、事前の設定に従い、衝突の中で、自分なりの行動をする。その効果を言えば、読者に「ああ、やっぱりXXXらしいのやり方だなあ」という感想を生ませる。一つの比喩と、「戦略的な優勢を取れば、戦争が始まる前に終わるのと同然」。作品の中でも同じ、人物の間の出来事に、ある程度には「必然性」がある。
作品の中で一番不思議なことと言えば、多分恭一とつぐみの恋だと多くの人に思われるのであろう。確かに、ただ表面的な性格を見ると、二人が恋人関係になるのはどうも想像できないことである。しかし、私の考えで、それは作品の一種の「必然」である。つまり、つぐみと恭一の付き合いが最初から決まっていることである。
上記の分析によって、つぐみは本当に生存を追求している。彼女の心には、普通の人間と同じ欲求がある。勿論、普通の人間として尊重されることもつぐみが常に追求している。しかし、周りの人がいつも彼女を病者、或いは弱者に扱っている、彼女の家族も例外ではない。彼女は体が弱いから甘やかし過ぎるので、逆に彼女の正当な欲求を目に入れないのである。一人の人間として尊重されていないので、彼女はいつも劣等感に苦しめられているのである。
しかし、恭一は他人とは違い、つぐみの欲求を感知し、彼女のストレスによる心強さに感服し、彼女を一人の人間として対等的に尊重していたのである。それもつぐみがずっと無意識に追求しているものである。彼女にとっては恭一が自分の存在を初めて認めてくれる人である。従って、つぐみが恭一に引かれることもおかしくないのである。
上述に基づき、わたしは恭一との恋がつぐみにとっては一種の「必然」だと思う。つぐみにとって、恭一は一人の恋人だけではなく、より微妙な感情が含んでいる。彼女が無意識に恭一の認めを求めている。彼女が無意識に恭一を闇の中の一点の光に見るのであろう。従って、この場合、彼女の心理状態が犬と散歩する時とは違う。比喩で言えば、一つが空の容器に水を注ぐような感じであり、一つが容器の水が溢れているような感じであると思う。
こういう意味で言えば、まりあもつぐみの本当の姿が見える人物である。しかし、恭一と比べればまた違うのである。まりあにはつぐみのような経歴がないので、つぐみを理解できても、つぐみにとってはただ親友に過ぎない。恭一自身もつぐみに似た経歴がある、そしてある程度でそれを越えたのである。従って、生存の自信のないつぐみにとって、彼の姿がまるで自分の未来に見えるのである。その点がまりあの場合とは本質的な区別があると思う。
つぐみにとっては恭一が必要な存在であるが、恭一にとってはつぐみがどんな存在であるのか?作品の中で恭一の心理状態についての描写はほとんどないので、それは断言しにくい。しかし、恭一の心の中でつぐみも重要な存在であるのが、作品の中で明白に述べられたのである。私の考えで、恭一自身もある程度でつぐみを求めている。たとえ体の病が治っても、彼が無意識にまだその影響を受けている。無意識に自分の思想を理解してくれる人を求めている。その点で彼はつぐみと同じであるかもしれない。
より一層を追求してみると、つぐみと恭一が付き合う原因が二人の無意識にある。外見によれば、二人は正反対に見えるが、実には二人とも同じものを求めている。そして、まりあの目の中で、二人ともその追求で光っているのである。
第二節「命という光」
作品の一部「告白」の中に、こういう描写がある。私は恭一と出会い、そして彼がつぐみの近況を聞いた時、「私の中では彼とつぐみが瞬間、ぴたりと重なって輝いたのだ」ということである。まりあの目で、カップルが引かれ合ったら、それなりの理由が確かに感じられる。しかし、まりあがつぐみと恭一から感じたのは、もっと途轍もなく強いものだった。つまり、つぐみと恭一が引かれ合った理由はただの恋人気分だけではないのである。
つぐみと恭一、この二つの人物というと、性格はまるで正反対的である。けれど、二人が一つの共通点がある。それはもう少しで自分の命を失うところだったという経験である。こういう経験があるから、つぐみも恭一も、生への切望が誰よりも強い、
二人はそれぞれの欠陥がある。たとえ体の傷が治っても、心の傷がまだ残っている。二人の関係は愛し合うより、求め合う、お互いの傷をなめ合うほうがもっと適当だとおもう。もちろん、二人の間は恋がないというわけでもない。二人を繋げている本当の絆は生命と人生への憧れである。二人の目の中で、相手をもう一人の自分にみるのであろうと思う。つぐみにとって、恭一が未来の自分であり、恭一にとって、つぐみが過去の自分である。
「二人はただ片翼を持ちに過ぎない天使たち、手を繋いで初めて幸せの天国へ飛ぶのができるわけだ」昔あるテレビゲームから聞いた言葉だけど、「TUGUMI」を読む時この二人にぴったり合うと思う。二つの不完全な命が合わせば、一つの完全な命を共有できる。まるで二つのガラスの破片が一つの完全な鏡になるのように、二人の命が一つになり、そして輝いている、それこそ命の光といえる。幸福な人生への憧れ、そして生命の素晴らしさを讃える。これがこの文章の本当に伝えようとする「主題」だと思う。
最初この文章に触れる時、「告白」の部分だけを読んだ。その時この文章の主題はもうはっきり感じたのであるけれど、結局二人がカップルになったかどうかはまだ分からなかった。なぜなら、到底つぐみと恭一が単純的な恋人ではなく、お互いに支え合うために付き合うのである。もし両者の誰かが心の傷から抜けたら、二人が分かれになる可能性もある。最初私の考えで二つの可能性は半々、もし分かれたら、つぐみの方が先に口に出す可能性は高い、彼女の性格はもっと強いから、それに恭一の性格で、多分つぐみに傷付くのを恐れて言えないのであろうと思う。しかし、たとえ分かれても二人は友達として繋げ続けるはずである。この場合、二人を繋げるのは最初から恋ではなく、命への切望である。もちろん二人が付き合い続ける可能性も確かにある。でも、どんな結局であっても、主題には大きな影響を与えられない、なるかどうかは作者の風格次第である。
結局、作者は明白に述べないけれど、やはり二人が付き合い続け、これからもお互いに支え合う道を選んだ、こういう積極的な終わりにした。もし私が作者なら、多分ちょっと感傷的な終わりにしよう思うけれど、こういうのは作者の経験、趣味などに関るからここまでにする。作者の他の作品である「キッチン」や「月光」など、作品の過程はいろいろあったけれど、結局はほとんど積極的で、中の人物たちもみんな進む道を見つけたのである。これも、作者のイズムとは言えるのであろう。
結論
この作品の中で、作者は「つぐみ」という人物を描写した。心理学の視点で見れば、つぐみは明らかに心理障害者である。しかし、その過激な行為の中、つぐみは自分の本音を隠し、全ての行為は無意識にストレスを解消するためである。そのストレスは大体このように説明できる。
生命への欲求―→生まれるストレスを解消―→自滅を求める―→死のストレスを解消―→「挫折――攻撃」の模式で他人を攻撃する。
従って、つぐみの行為の本来の目的はただ一つ:一人の人間として生きることである。確かに彼女の行為はよく他人に迷惑をさせるが、だからこそ彼女の欲求の単純さを表現することができる。その単純さの中で彼女の気持ちを感知することができる。そして、彼女は自分を理解してくれる友人と恋人を見つけ、少しずつ自分の人生の道を探そうとする。作品の最後、作者はつぐみと恭一によって、作品の主題を伝えた。それは幸福な人生への憧れ、そして生命の素晴らしさを讃えることである。













注釈
注1:フロイト・ジグムント Freud Sigmund (1856-1939)
オーストリアの精神科医で、精神症状が無意識の影響を受けて生じていると考える精神分析を創始した。神経症、そのなかでもとりわけヒステリー患者の治療に専心し、神経症の発生および治療メカニズム、さらには人のパーソナリティー発達のメカニズムについて多くの仮説や理論を提唱した。人間の精神構造を超自我、自我、イドの3層からなると考えた(局所論)。また、夢が主体の心理的世界をよく現していると考えて科学的な研究の対象にし、夢分析を確立した。
注2:防衛機制 defense mechanisms
不安・葛藤・フラストレーションなどから自己を守ろうとして働くさまざまな心の仕組み。投射・退行・抑圧・昇華・合理化など。適応機制。
注3:反動形成 reaction formation
防衛機制の1つで、受け入れがたい衝動や観念が抑圧されて無意識的なものとなり、 意識や行動面ではその反対のものに置き換わること。憎しみの感情に代わって愛情だけが 意識されるなどはこの例である。


参考文献
書名:『人格心理学』
作者:Jerry M. Burger [美]
出版社:中国軽工業出版社
出版年月日:2000年10月第1版
发表于 2004-6-6 14:49:02 | 显示全部楼层
つぐみ 0 【▼鶫】
(1)スズメ目ツグミ科の鳥。ムクドリほどの大きさで、背面は
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发表于 2004-6-6 15:47:39 | 显示全部楼层
照主人的命令来给B&B哥哥的强文捧场的.......
顺奉旨加精。
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发表于 2004-6-7 10:32:03 | 显示全部楼层
昏死了。。。早就听说过
日语系的毕业论文一般都是读书感想。。
终于领教了~
呵呵。。。
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