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日本の历史人物详解【战国-安土桃山時代(1491~1603)】

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发表于 2004-3-28 00:25:55 | 显示全部楼层 |阅读模式
热血 野心 梦幻般的时代
叱咤风云的人物
知彼知己,百战百胜
只是玩,不了解可是不行的啊。


战国年表:
日文:  http://www.asahi-net.or.jp/~mh6h-ecg/ksn/n...npyo3/index.htm
中文:  http://se-n-go-ku.org/time-table.html




以征服关东为目标的战国大名


北条早雲(ほうじょうそううん) 関東征服をめざした戦国大名
【戦国時代 1432~1519】政治家、武人

今川家のお家騒動をおさめ 興国寺城主となる
早雲のうまれははっきりしません。駿河(するが)(静岡県)の守護、今川義忠(いまがわよしただ)の妻になっていた妹をたよって、今川氏の居候(いそうろう)をしていました。
 やがて、今川氏のお家騒動をおさめた手柄により、駿河の興国寺城主になりました。
 続いて、伊豆(静岡県)の足利政知(あしかがまさとも)の子、茶々丸(ちゃちゃまる)をころし、伊豆の韮山城(にらやまじょう)を手にいれました。

伊豆の武士や農民の心をつかむ
 早雲は、伊豆の武士たちの領地を、そのまま認めてやり、農民の税をかるくして、信頼を得ました。
 つぎに早雲がねらったのは、相模(さがみ)(神奈川県)の小田原城(おだわらじょう)でした。早雲は小田原城を攻めるのに、うまい作戦をたてました。

敵をだまして 小田原城を奪う
 まず小田原城主の大森藤頼(おおもりふじより)に、鹿狩りをしたいので、そのための人を領地のなかに入れさせてほしいと頼みました。 
 そうして鹿狩りの人にばけた早雲の家来が一気に攻め込んで、小田原城を奪いました。
 敵をだまし、敵のうらをかくのは戦国時代の普通の戦法で、別にひきょうなことではありませんでした。

関東征服の足がかりをつくる
こうして早雲は、関東を征服する足がかりをつくりました。
 続いて早雲は、相模の豪族三浦氏(みうらし)の新井城(あらいじょう)を、兵糧ぜめにして手に入れました。
 早雲の夢は関東地方全部を制服することでした。しかし一五一九年、病気のために韮山城でしにました。八八歳でした。



平定今川家的内讧 成为兴国寺城主
  早云的出生不详。骏河(静冈县)的守护,依靠他的妹妹、即今川义忠之妻,成为了今川氏的食客。
  不久,因平定今川氏家的内讧有功,成为了骏河的兴国寺城主。
  接着,杀伊豆(静冈县)的足利政知之子茶茶丸,把伊豆的韮山城得到了手。

在伊豆得武士和农民中获得人心
  早云对于伊豆得武士们得领地,原封不动的给予认同,并减轻了农税,得到了大家的信赖。
  接着,早云的目标就是相模(神奈川县)的小田原城。为了攻下小田原城,早云制定了一个高明的战术。

骗过敌方,夺取小田原城
  早云假借狩鹿之名,向小田原城主的大森藤赖请求让狩鹿所需的人进入其领地。
  然后,化妆成狩鹿人的早云的家臣一口气攻入其中,夺下了小田原城。
  骗过敌人,然后直捣敌方内部是战国时代普通的战术,所以,并非卑劣。

为征服关东铺下了垫脚石
  这样,早云为征服关东铺下了垫脚石。
  接着,早云断了相模的豪族三浦氏的兵粮,夺下了新井城。
  早云的梦想是征服整个关东地方。可是,一五一九年,在韮山城病故。享年八十八岁。


日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译
 楼主| 发表于 2004-3-28 00:31:32 | 显示全部楼层
商人出身的战国大名


斉藤道三(さいとうどうさん)  商人から身をおこした戦国大名
【戦国時代 1494~1556】政治家、武人

斉藤家をのっとり 美濃(みの)の大名になる
 山城(やましろ)(京都府)に生まれた道三は、国々に行商してあるく、油売りの商人だったといわれています。
 美濃(岐阜県)の守護の土岐氏(ときし)に使える、斉藤家に出入りしているうちに、主人を殺して斉藤家をのっとりしまいました。
 次に土岐氏もたおして美濃を手に入れ、まわりの大名たちからマムシの道三と恐れられました。

信長を見込んで 娘の濃姫と結婚させる
 となりの尾張(おわり)(愛知県)の織田家とは、ライバル同士でした。しかし道三は、織田信長を見込んで、娘の濃姫を信長と結婚させ、お互いに戦わない同盟を結びました。
 やがて道三は、子の義竜と仲が悪くなり、長良川(ながらがわ)で戦いました。しかし敗れて死にました。


夺取齐藤家 成为美浓的大名
  出生在山城(京都府)的道三,据说是个在各国行商卖油的商人。
  被美浓(岐埠县)的守护土岐氏所用。趁出入齐藤家的时候,杀了主子夺取了齐藤家。
  之后又打倒土岐氏夺下了美浓。周围的大名都惧怕的称他为“蝮蛇道三”。

看好信长 嫁出了女儿浓姬
  邻国的尾张(爱知县)的织田家是竞争对手。但道三看好织田信长,把女儿浓姬嫁给了信长,两家结为同盟,互不相战。
  不久,道三与其子义龙关系转恶,在长良川开战。最终战败而死。



日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译
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 楼主| 发表于 2004-3-28 00:36:48 | 显示全部楼层
保护了文化的战国大名


大内義隆(おおうちよしたか) 文化をまもった戦国大名
【戦国時代 1507~1551】政治家、武人

山陰(さんいん)の尼子氏(あまこし)と戦いを繰り広げる
 中国地方の戦国大名として生まれた義隆は、二二歳で大内家をつぎ、山陰(島根県)の尼子氏と戦いを繰り返していました。
 しかし義隆は、戦いをして領土を広げることよりも、周防(すおう)(山口県)の城下町山口を文化の面で栄えさせることに、力を入れました。そして戦いは、家来の陶晴賢(すえはるかた)に任せていました。

文化のために お金を湯水のように使う
山口には京都から、大勢の公家や僧、学者、画家たちがやってきました。そして山口は、「西の京都」と呼ばれました。
 義隆が京都の文化人や僧を山口に招いて、立派な屋敷や寺を建ててやったため、大内氏の財政は苦しくなりました。
 外国の貿易のもうけをつぎ込んでも、まだ足りません。そこで農民に重い税をかけました。

陶晴賢に叛かれ 自殺する
 義隆の政治をみて、タカ派の重臣である陶晴賢は、義隆を倒す決心を固めました。
 一五五一年、晴賢は義隆を討つために立ち上がりました。
 義隆は山口から日本海がわの仙崎(せんざき)までおちのび、大寧寺(だいねいじ)という寺で自殺しました。
 義隆は戦国の世に生まれながら、戦争が嫌いで、文化的なことに先祖から受け継いだお金を、湯水のように使った大名です。




与山阴的尼子氏展开战斗
  作为中国地方的战国大名而被生下的义隆,二十二岁时继承大内家业,反复与山阴(岛根县)的尼子氏展开了战斗。
  然而,比起用战争来扩展领土,义隆把更多的精力放在了兴盛周防(山口县)的城下町山口的文化方面。而作战方面,就交给了家臣陶晴贤。

为了文化 挥钱如流水
  有很多的公卿、僧人、学者、画家来到了山口。由此,山口被称为“西京都”
  义隆把京都的文人及僧人招到山口,还建造了华丽的宅邸和寺院,所以,大内氏的财政陷入了困境。
  就算与外国的贸易能够有利润,也还是不够。于是,对农民施加了重税。
  

被陶晴贤背叛  自杀
  看了义隆的执政法,身为强硬派的重臣的陶晴贤,下定决心要推翻义隆。
一五五一年,晴贤开始讨伐义隆。
  义隆从山口逃亡到日本海那里的仙崎,在一个叫大宁寺的寺院内自杀了。
  出生在战国之中,却讨厌战争,为了文化方面的事业把从先祖那继承来的金钱当水一样使用,义隆就是这样一个大名。


日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译
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 楼主| 发表于 2004-3-28 02:07:25 | 显示全部楼层
向日本传播天主教


フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier)日本にキリスト教を伝える
【戦国時代 1506~1552】宗教家


日本に初めて訪れた キリスト教の宣教師
 ザビエルはイスパニア(スペイン)の宣教師でした。インドやセイロンでキリスト教を広めたのち、一五四九年、日本の薩摩(さつま)(鹿児島県)にやってきました。
 鹿児島・平戸・山口・堺(さかい)などでキリスト教を広めながら京都にのぼり、天皇か将軍にあって、キリスト教を認めてもらおうとしました。
 しかし京都の町は応仁の乱で荒れ果て、天皇や将軍には力がありません。そこでザビエルは、山口の大内義隆を訪ねていきました。

戦国大名とつきあい キリスト教を広める
ザビエルは大内義隆の助けを借り、山口に教会をたて、キリスト教を広めました。
 やがて豊後(ぶんご)(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)に招かれて、府内(ふない)(大分県)で布教しました。
 一五五一年、ザビエルは一度インドに帰ったのち、中国にわたりました。しかし熱病にかかり、中国の広州に近くで死にました。




首次拜访日本的 天主教的传教士
弗朗西斯科•泽维尔是西班牙的传教士。在印度、锡兰等地传教后,一五四九年,来到了日本的萨摩(鹿儿岛县)。
泽维尔在鹿儿岛•平户•山口•堺等地传教的同时,一边上行前往京都,想通过会见天皇或将军,使天主教得到认同。
可是京都的町已经因“应仁之乱”而荒废,天皇和将军都已没有势力了。于是,泽维尔去拜访了山口的大内义隆。

与战国大名交往 传播天主教
  泽维尔借助于大内义隆的帮助,在山口成立教会,传播了天主教。
  不久,又得到丰后(大分县)的大友宗麟的邀请,在府内(大分县)进行传教。
  一五五一年,泽维尔回了一次印度,之后,又到了中国。但是,患了热病,在中国广州附近病逝。



日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译
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 楼主| 发表于 2004-3-28 15:49:34 | 显示全部楼层
统一了中国地方的战国大名



毛利元就(もうりもとなり)中国地方を統一した戦国大名
【戦国時代 1497~1571】武人

少年のころから 天下を目指す
元就は安芸(あき)(広島県)の地頭の子に生まれました。
一二歳の時厳島(いつくしま)神社に御参りした帰り、元就は家来に「何をお祈りしたか」とたずねました。
家来が「若君が中国地方の主になられますようにと、祈りました。」と答えると、元就は「何故天下の主となるように、祈らなかったのだ」と叱りました
元就は少年のころから、戦国武将らしい大きな望みをもっていました。

大内氏と手を結び 尼子氏を攻める
 はじめ元就は、出雲(いずも)(島根県)の尼子氏につかえていましたが、のち周防(すおう)(山口県)の大内義隆と手を結びました。
 元就は相手のスパイを逆につかって尼子氏を破りました。また結婚を利用して、周りの大名と同盟を結び、戦わないで勢力をのばしていきました。
 一族の団結を重んじた元就が、三人の子を三本の矢にたとえ、団結の大切さを教えた話は有名です。

陶晴賢をたおし 山陽(さんよう)地方を手にいれる
 大内義隆が家来の陶晴賢に殺されると、一五五五年、元就は晴賢と厳島で戦い、これをやぶって義隆の仇を取りました。
 この時も元就は、相手のスパイを逆に利用しました。
 晴賢を倒した元就は、安芸(広島県)・周防(山口県)を手に入れ、山陽地方を完全に支配するようになりました。

一族の強い団結で 中国地方一〇か国を支配する
 一五五八年、元就は尼子氏に対して、最後の決戦を挑みました。
 毛利軍は元就の長男隆元(たかもと)を大将として出雲に攻め込み、八年がかりで尼子氏を滅ぼしました。
 元就は天下を取ることはできませんでしたが、中国地方の一〇か国と北九州の一部を支配する戦国大名となりました。

  

少年时就以天下为目标
  元就是安艺(广岛县)的地头之子。
  十二岁时,在去严岛神社参拜的归途中,元就问家臣“许了什么愿?”
  家臣回答道:“祈愿少主人能成为中国地方之主。” 于是,元就斥责道:“何故不祈愿我能成为天下之主”
  元就从少年的时候开始,就像战国武将一样有着很大的抱负。

与大内氏联手 攻打尼子氏
  最初,元就是侍奉出云(岛根县)的尼子氏的,但之后,他与周防(山口县)的大内义隆联了手。
  元就用反间计,击溃了尼子氏。后又利用姻亲,与周围的大名结成同盟,不交战就扩大了势力。
  元就很重视同族之间的团结,他把三个儿子比喻成三支箭,教育他们团结的重要性,此话被传为了有名的佳话。

灭陶晴贤  将山阳地方归入掌中
  大内义隆遭其家臣陶晴贤所害后,一五五五年,元就与晴贤在严岛交战,并就此击败晴贤,为义隆报了仇。
  那时,元就也是利用了反间计。
  元就击败晴贤后,将安艺(广岛县)•周防(山口县)得到手,于是山阳地方就完全归元就所支配了。

通过同族强硬的团结 支配了中国地方十个国家
  一五五八年,元就向尼子氏发起了最后的决战。
  毛利军以元就的长子隆元为大将,攻入出云,以八年的时间击灭了尼子氏。
  元就最终没能夺取天下,但成为了支配中国地方十个国家及北九州一部分的战国大名。


日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译


附:

三矢の訓:
毛利元就病てまさに死せんとす。諸氏を前に召し、其子の数の矢を束ねて力を極めて之を折れども断えず。また其一条を抜き、随って折れば随って断ゆ。曰く、兄弟はこの矢の如し。和すれば則ち相依って事をなし、和せざれば則ち各々敗る…。

三箭之训:
毛利元就患病临终前,将诸氏召至前,以其子同数之箭捆束后用力折之,不断。将其中一支抽出,一折即断。曰:兄弟就如这箭矣。和,则可相依无事。不和,则各自皆败……。

(LuckyPaPa译)
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 楼主| 发表于 2004-3-29 01:06:21 | 显示全部楼层
维持毛利家


小早川隆景(こばやかわたかかげ) 毛利家をささえる
【戦国~安土桃山時代 1533~1597】

  毛利元就の三男で、小早川家の養子になりました。父の元就や甥の輝元(てるもと)を助けて戦い、毛利家をしっかりささえました。
 その後、強力な水軍をつくり、瀬戸内海(せとないかい)で勢力を振るいました。
 また豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定や、朝鮮半島の戦争に活躍し、秀吉に重く用いられました。


  毛利元就的三男,成为了小早川家的养子。隆景为其父元就及外甥辉元助战,并且坚固地支撑着毛利家。
  其后,隆景建立了强大的水军,在濑户内海一带势力兴旺。
  隆景还活跃于丰臣秀吉平定九州、朝鲜半岛战役中,并被秀吉重用。


日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译


  据说,毛利元就共有九个儿子,其中资质最佳的就属隆景了。就算是当时敌对的信长的手下秀吉,也对隆景的人品、实力给予了极高的评价。本能寺事变后,秀吉以事发后秀吉军急返中国时,隆景未进行破坏为由,给隆景以厚遇,将隆景招入旗下。
  隆景助秀吉平定九州,并以高龄出征朝鲜之役,但因战线过长并缺乏粮食,朝鲜民众反击,主张撤退的隆景在碧蹄馆之战牵住并击破二万朝鲜军,才使得秀吉军得以撤退。
  1597年,隆景病逝。
  Luis Frois(1532-1597 传教士,著有《日本史》、《日欧文化比较》)在日本史中毫不吝啬地赞道:
  “小早川殿下在日本是位有名的、具有罕见才能而非常受人尊敬的人物。靠着他的知识与努力,很好的治理了毛利家所统领的九个国家,这个国家能在很长的时间内,既无战乱也无谋反地治理着数个国家,实属少有。”
(LuckyPaPa)
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 楼主| 发表于 2004-3-30 20:24:36 | 显示全部楼层
以“风林火山”为旗标的战国大名




武田信玄(たけだしんげん) 風林火山(ふうりんかざん)の旗印の戦国大名
【戦国時代 1521~1573】武人

二一歳で 父にかわって領主になる
 信玄は、甲斐(かい)(山梨県)の守護の家に生まれました。
 二一歳の時、領民に評判の悪かった父の信虎(のぶとら)を、むりやり駿河(するが)(静岡県)の今川氏に預け、家を継ぎました。
 信玄は、洪水を防ぐため、信玄堤と呼ばれる堤防を築いて領民によろこばれました。また、金山を拓いて軍資金をつくりました。こうして領国をまとめて、天下取りを目指しました。

風林火山の旗をなびかせ すばやく動く
 信玄は行動を起こす前に十分準備し、いったん行動を起こすと、驚くほどのスピードで動きます。「風林火山」の旗をひるがえし、あっという間に甲斐(山梨県)を統一すると、信濃(しなの)(長野県)へ進出しました。そして、信濃で上杉謙信(うえすぎけんしん)と一一年間も戦い続けました。(川中島(かわなかじま)の合戦)
 しかし、謙信との勝負はつきませんでした。

京都にむかって進撃しながら 徳川の軍を破る
 謙信を倒すことよりも、天下とりを目指す信玄は、一五七二年秋、二万の大軍を率いて甲斐を出発、京都にむかいました。
 その前にたちはだかった徳川の軍を、三方ヶ原(みかたがはら)(静岡県)で破りました。しかし、三河(みかわ)(愛知県)の野田城(のだじょう)を攻撃中、鉄砲で撃たれて重傷を負い、病気になったとも言われています。

京都に風林火山の旗を ひるがえすことなく死ぬ 
  信玄は病気を治すために、甲斐へ引き上げる途中死にました。五三歳でした。
 信玄は仏教をあつく信じ、天台宗で一番高い僧の位をもらい、漢詩や絵も上手でした。



二十一岁 代替父亲成为领主
  信玄出生于甲斐(山梨县)的守护之家。
  二十一岁时,信玄强行将领民评价很差的父亲信虎放逐到骏河(静冈县)的今川氏,自己继承了家业。
  信玄为了防洪,修筑了信玄堤,使领民们很是喜悦。他又开采金山筹备军资用金。如此一来,就统一了整个领国,把目标直指天下。

招展风林火山之旗 行动迅速
  信玄在开始行动前,都会做好充分的准备,一旦发起行动,就会以惊人的速度展开。
  信玄军舞动着“风林火山”的旗帜,转眼之间就统一了甲斐(山梨县),并开始向信浓(长野县)进发。接着,在信浓与上杉谦信持续对战了十一年。(川中岛合战)
  然而,最终与谦信未分胜负。

向京都发起进攻 并击灭德川军
  对于信玄而言,比起打倒谦信,更重要的是夺取天下。一五七二年秋,信玄率领二万大军从甲斐出发,向京都进军。
  信玄在三方原(静冈县)击灭了阻挡在前的德川军。不过,据说在攻打三河(爱知县)的野田城时,信玄被铁炮击中负了重伤,并因此得了病。

未能在京都舞动风林火山之旗 就逝去了
  信玄为了治病,在回甲斐的途中病逝。享年五十三岁。
  信玄热衷于佛教,得到了天台宗最高的僧位。还擅长汉诗与绘画。


日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译





武田信玄 幼名太郎。名晴信。法号信玄。别号,德荣轩。




風林火山の旗(孫子の旗)
风林火山是:“疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山”的略称。出自孙子兵法。
日文的说法是 :疾きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし。
此旗树立在信玄阵头,象征着疾风武士战马队。
藏青色的绢布上用金泥写的这十四个字。据说是出自信玄心中的导师、快川国师之笔。
敌军只是看到此军旗,就已经丧失斗志。



太刀 銘「一」 (重要文化財)



馬標旗 黑の花菱



信玄所用の軍配
鉄に水晶をはめ込んである



信玄所用盔甲(重要文化財指定)




作为战国大名,谁都希望自己的国家繁荣昌盛。信玄为治理洪水修筑堤防,兴盛农业,还通过金、纸、马等产业稳固地统一了领国。

除了“信玄堤”外,“信玄家法”(甲州法度)也十分著名。
该法度上下两卷,共一百五十六条。多处引用了论语、孟子等其他典籍。
是武士庶民的日常行为的规范。


(LuckyPaPa整理)
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 楼主| 发表于 2004-3-30 20:30:01 | 显示全部楼层
在川中岛与信玄交战



上杉謙信(うえすぎけんしん)[長尾景虎(ながおかげとら)] 川中島で信玄と戦う
【戦国時代 1530~1578】武人

春日山(かすがやま)城主となり 越後(えちご)をおさめた
 戦いの鬼とおそれられた越後(新潟県)の長尾為景(ながおためかげ)の子として生まれ、はじめその名を景虎とも輝虎(てるとら)ともいいました。
 父の死後、家来の胎田(はるた)氏に攻められ、栃尾城(とちおじょう)にのがれました。翌年、反撃に転じ、胎田の軍をやぶり、いちはやく有名になりました。
 一九歳の時、兄にかわって長尾家を継ぎ、春日山城主となり、越後を治めました。

関東管領となり 武田信玄とぶつかる
 謙信は関東管領の上杉氏を助けるために、しばしば関東に出陣し、北条(ほうじょう)氏と戦いました。そして上杉氏から関東管領の職と、上杉の姓を譲られました。
 謙信は、前から信濃(長野県)への進出を狙っていました。また甲斐(山梨県)の武田信玄も信濃を狙っていました。信濃の川中島で謙信は信玄とぶつかるようになりました。

川中島で五回も信玄と戦う
 謙信と信玄は、信濃の川中島で一一年間に五回も戦いました。
 一五六一年の四回目の戦いのとき、謙信が武田の陣に馬でのりこんで、信玄にきりつけた話は有名です。
 川中島の戦いは、結局勝負かつかず、謙信は越後に引き上げました。

信長(のぶなが)を討とうと 北陸から京都を目指す
 川中島の決戦から一〇年あまりたった一五七七年、謙信は能登(のと)(石川県)の七尾城(ななおじょう)を攻めました。
 さらに織田信長(おだのぶなが)を討つために京都にむかおうと決心しました。しかし病気になり、翌年の三月、四九歳で死にました。
 謙信は戦国時代にめずらしい、人間の道に外れた行いを嫌う武将でした。


川中島の合戦略年表
一五二一 武田信玄生まれる。
一五三〇 上杉謙信(長尾景虎)生まれる。
一五四一 信玄が父信虎を追放して、武田家の当主となる。
一五四八 謙信が長尾家の当主となり、春日山城に入る。
一五五三 第一回目の川中島の合戦。
一五五五 第二回目の川中島の合戦。
一五五七 第三回目の川中島の合戦。
一五六一 謙信が関東管領となり、上杉家を継ぐ。
     第四回目の川中島の合戦。この時信玄と謙信が直接にぶつかる。
一五六四 第五回目の川中島の合戦。
一五七三 信玄が五三歳で死ぬ。
一五七八 謙信が四九歳で死ぬ。



成为春日山城主 统治越后
  是越后(新泻县)的人称战鬼的长尾为景之子,最初取过景虎和辉虎的名字。
  父亲死后,被家臣胎田氏攻打,逃至枥尾城。第二年,谦信展开反击,击败胎田军,很快就有了名气。
  十九岁时,代替兄长继承长尾家,成为了春日山城主,统治了越后。

成为关东管领 与武田信玄交锋
  谦信为帮助关东管领上杉氏,屡次向关东出兵,与北条氏交战。于是,上杉氏就将其关东管领之职和上杉这个姓让给了谦信。
  谦信意图从前方打入信浓(长野县)。而甲斐(山梨县)的武田信玄也瞄准了信浓。在信浓的川中岛,谦信与信玄两军相遇。

川中岛与信玄交战五个回合
  在十一年里,谦信与信玄在信浓的川中岛交战了五个回合。
  一五六一年的第四个回合,谦信以单骑闯入武田阵内,刺伤了信玄一话尤为有名。
  川中岛之战最终还未分胜负,谦信就撤回了越后。

讨伐信长 从北陆直指京都
  川中岛决战后十余年的一五七七年,谦信攻打了能登(石川县)的七尾城。
  后又为了讨伐织田信长,决心进军京都。却患了病,与次年三月病逝,终年四十九岁。
  谦信是战国时代中少有的、厌恶偏离道德的行为的武将。


川中岛合战简略年表
一五二一 武田信玄出生。
一五三〇 上杉谦信(长尾景虎)出生。
一五四一 信玄放逐其父信虎,成为武田家之主。
一五四八 谦信成为长尾家之主,进入春日山城。
一五五三 第一回合的川中岛合战。
一五五五 第二回合的川中岛合战。
一五五七 第三回合的川中岛合战。
一五六一 谦信成为关东管领,继承上杉家。
     第四回合的川中岛合战。此时信玄与谦信直接交锋。
一五六四 第五回合的川中岛合战。
一五七三 信玄去世。终年五十三岁。
一五七八 谦信去世。终年四十九岁。


日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译





一五六一年三月,谦信率领11万大军攻打小田原城而出兵关东,但攻略未成故暂收兵回越后。就在谦信离开越后这段时间里,武田在善光寺平修建的海津城为据点,多次侵略其周边意图攻入越后。
为此,同年八月十四日,谦信为破武田势力,率领一万八千人马,进兵川中岛,在善光寺扎营。另一方面,信玄则率领一万六千人,于八月二十四日到达川中岛。
谦信留五千兵于善光寺,亲自率领一万三千兵马上妻女山,在可以俯视海津城的阵马平驻兵。而信玄最初在城外茶臼山扎营,但对谦信的妙策有所警戒的他又急速下山,最后全军集中在了海津城。
九月九日重阳节晚,武田下令总军二万兵马兵分两路,一万二千人从妻女山后方进攻,另一路人马在川中岛待机,迎击从妻女山下来的上杉军。而同时谦信通过海津城平静无节日气氛的炊烟,识破信玄的奇袭作战法,立刻召集诸将领,下令决一雌雄。
这天恰巧晨雾极浓,看不清方寸之外,所以,互相之间完全不能注意敌军的情形。十日早晨,就在雾终于散开放晴之时,川中岛八幡原上两军短兵相接,合战开始了。在军势上取胜的上杉军乘着优势展开战斗,谦信亲自骑上其爱马放生月毛,以单骑冲入武田军本阵,用其如同电光火石般的三太刀直斩向信玄。信玄连拔刀的机会都没有,只能用军配扇挡住。三太刀还是砍到了信玄的肩头。就在千钧一发之际,信玄手下原大隅守赶到,用长木仓刺马上的谦信,然而,一瞬的变化,长木仓刺中了马屁股。马受惊跳起、奔驰而去。谦信错失了信玄的首级,而信玄从谦信的必杀太刀下幸免余生。这就是为世间所津津乐道的谦信与信玄的单挑。
不过,后来,当意识到作战失败的武田别动队赶到主战场,形势就有了逆转。上杉军也受到了相当大的打击,撤回了善光寺。
此战死伤:据说上杉军为九千四百人,武田军为一万二千人。
后人评价此战时,有很多不同的意见,有人认为,军势上上杉军占优势,所以谦信胜出;也有人认为,上杉军撤兵太快,所以信玄胜;还有人认为,上午谦信胜,下午信玄胜。呵呵。


永禄四年(1561)九月十日 第四回 川中島の合戦





川中岛之战与信玄对决的场面



上杉军挥舞「毘」字旗出阵的情形。
谦信笃信佛教,被看作是战神「毘沙門天(びしゃもんてん)」的化身。(毘沙門天是四大天王之一)


穿着盔甲的谦信。


上杉谦信极其爱酒,终生未取。
这首据说是谦信的遗诗:四十九年一睡夢、一期栄華一杯酒

(LuckyPaPa 整理)
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 楼主| 发表于 2004-4-3 04:05:28 | 显示全部楼层
在天下统一的中途倒下





織田信長(おだのぶなが) 天下統一の半ばで倒れる
【安土桃山時代 1534~1582】武人、政治家

桶狭間(おけはざま)で 今川義元(いまがわよしもと)をやぶる 織田信長は尾張(おわり)(愛知県)の織田信秀(おだのぶひで)の子として生まれました。子供のころは、大変な乱暴ものでした。
 一五五一年、一八歳で織田家を継いだ信長は、桶狭間の戦いで今川義元をたおし、戦国の世の天下とりレースの第一歩を踏み出しました。

天下統一の戦いを 勝ち抜く
 一五六八年、足利義昭(あしかがよしあき)をおしたてて京都に入り、義昭を室町幕府(むろまちばくふ)の一五代将軍にしました。のちに義昭と仲が悪くなり、室町幕府を倒しました。
 ついで朝倉(あさくら)・浅井(あさい)氏を姉川(あねがわ)の戦いでやぶり、北陸地方にも勢力をのばしました。さらに長篠(ながしの)の戦いでは、徳川家康(とくがわいえやす)と手を結び、鉄砲をたくさん使って、武田勝頼(たけだかつより)の軍をやぶりました。

安土城を築き、城下町を栄えさせる 信長は安土(滋賀県)にりっぱな城を築き、城下町では、誰でも自由に商売できるようにしました。
 そのために安土の町は全国から商人があつまり、栄えました。また関所をやめ、道路をつくり、橋を架けるなど、交通を便利にするために力を尽くしました。

本能寺で 討たれて死ぬ
信長はまた、比叡山(ひえいざん)を焼き討ちにしたり、石山本願寺や各地の一向一揆と戦い、何万人という信者や僧を殺しました。
 このようにして全国のほぼ半分を統一しましたが、一五八二年、京都の本能寺で殺されました。四九歳でした。






在桶狭间击溃今川义元
  织田信长是尾张(爱知县)的织田信秀之子。孩提时就十分粗暴。
  十八岁就继承了织田家的信长,于一五五一年,在桶狭间之战击败今川义元,在战国时期夺取天下的竞争中跨出了第一步。

天下统一之战 百战百胜
  一五六八年,信长打败足利义昭进入京都,将义昭封为室町幕府的第十五代将军。之后又与义昭得关系转恶,就推倒了室町幕府。
  随后,在姊川之战将朝仓•浅井氏打败,扩张了在北陆地方的势力。又在长条之战与德川家康结盟,使用了大量的铁跑,击溃了武田胜赖军。

建造了安土城,繁荣了城下町
  信长在安土(滋贺县)建造了华丽的城池,并且让任何人都可以在城下町自由交易。
  为此,安土町云集了来自全国的商人,变得繁荣昌盛。另外,信长还取消关所,铺设道路,架筑桥梁等,为了使交通更为方便而竭尽了全力。

在本能寺遭到刺杀而死
  信长还曾火攻比叡山,镇压石山本愿寺及各地的宗教起义,杀死了几万人的信徒与僧人。
  如此这样,全国差不多有一半总算统一了,可就在一五八二年,信长在京都的本能寺被杀害。终年四十九岁。




日文:摘自『日本の歴史人物事典』(集英社)
中文:LuckyPaPa译







安土城天主阁
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 楼主| 发表于 2004-4-24 17:44:56 | 显示全部楼层
待续……
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由贵瑛里 该用户已被删除
发表于 2004-7-24 05:56:27 | 显示全部楼层
好强………强的没话说,偶以后要交论文从这里找资料就OK了
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发表于 2004-7-30 17:28:31 | 显示全部楼层
hao ya!!!!!!!
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衰鬼上帝 该用户已被删除
发表于 2004-10-15 22:36:01 | 显示全部楼层
很强啊~!我都没看过~!
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发表于 2004-10-23 16:00:33 | 显示全部楼层
楼主继续啊
还有没有关于上谦景胜和上谦景虎的
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发表于 2004-12-27 23:57:50 | 显示全部楼层
丰成秀吉呢?
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发表于 2005-1-13 21:58:29 | 显示全部楼层
1楼的……
虽说斎藤斉藤是同音
但斋和齐的繁体汉字您总不至于不认识吧?换句话说,拔刀斋能做拔刀齐说么?通么?
日本人怎么混的咱不管,翻译过来就要讲究汉语正确运用。
比如朝仓,朝 读多“招”音而不是“巢”
信长的长读音作“常”而不是“涨”
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发表于 2005-2-11 10:51:53 | 显示全部楼层
听说织田信长和森乱丸最后是在本能寺一起死的,是自焚死的吗?如果是,为什么要自焚呢?
PS:森乱丸好惨哦,死的时候才18岁。
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发表于 2005-2-11 10:56:24 | 显示全部楼层
顺便问一下,丰臣秀吉与羽柴秀吉应该是同一个人罢~
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发表于 2005-2-20 10:34:52 | 显示全部楼层
大名小姓,兰丸殿是小姓的级的哦
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发表于 2005-3-3 16:45:52 | 显示全部楼层
是咯是咯,为什么无丰臣秀吉的介绍
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